素直になりたい





……いつかこういう日が来ると思っていた。

彼女の心の中で期待と不安が交錯するこの瞬間を。

その隣には、“あの事件”をきっかけに自分との愛を誓い、最近の出来事でさらにその絆を再確認した青年。

その表情は平然を装っているが、自分には分かる。

彼もまた、不安を隠しきれないということを。







これから彼は、初めて出会うのだ。



自身にとっての大きな壁でもある、自分の母親と―――。











<ピンポーン♪>



…リビングの片隅で静かに待っていた彼女は、インターホンが家の中に響いたのを聞き、玄関に続く扉に視線を向ける。

それから間もなく、その扉から一人の女性が入ってくる。

「奥様、桐ヶ谷和人様がお見えになりました。明日奈お嬢様もご一緒です。」

この家に雇われている家政婦――佐田明代の言葉を聞き、彼女――結城京子は立ち上がった。

「紅茶を用意しなさい。出迎えは私がやるわ。」

「かしこまりました。」

指示を受けた佐田はキッチンへ、そして京子は玄関へと向かう。





……桐ヶ谷和人。

明日奈が異性の中で唯一心を許した男。

同時に、“あの事件”の最大の功労者。

夫ですら、娘との交際を認めているという存在……。

明日奈が現実に帰ってきたあの日から、あの子の中で何かが変わっていたことは私も気づいていた。

おおよそ、“あの世界”で出会ったという友人たちや、あの男の影響でしょうね。

私がこの日を待っていた理由、それは、桐ヶ谷和人という存在を見定めることに他ならない。

娘がなぜ彼に想いを寄せるのか…?

逆に彼は娘を本当に愛しているのか…?

そして、将来の伴侶に値する青年なのか…?

その全てを、私は知りたい…!






―――ガチャッ……。





ややあって、家の扉を開ける音が響き、京子は厳しくて凛とした視線を前に向ける。

そこには、今どきの男の子らしい黒いカジュアルな服を着こなす青年と、その傍に寄り添う自身の娘の姿があった。

「…母さん、ただいま。」

まずは娘が口を開いて挨拶。

「おかえり、明日奈。」

それに返事をした京子は、すぐさま視線を彼に移す。

ふと、彼女は彼の表情を見て何かに気づいた。

これまでの婚約者候補の男とは、何かが違う。

ただ漠然とそう思った…。

ふと、数秒間の沈黙を破り、青年が姿勢を正して頭を垂れる。

「初めまして、桐ヶ谷和人です。ご挨拶に参りました。」

覚悟を固めたようなはっきりとした丁寧な言葉で口を開く青年。

「……頭を上げなさい。少し硬いわよ。」

「は、はい…。」

ゆっくりと頭を上げる和人の視線に、京子の冷静な表情が映る。

「娘と夫から話は聞いているわ。私が明日奈の母・京子よ。ゆっくりと話を聞かせてもらうわね。」

「はい…!」

「まずは上がりなさい。今、紅茶を用意しているから。」

「はい、お邪魔します。」

靴を脱いでスリッパに履き替え、リビングに案内される和人。

その傍らの明日奈は、いつもと違う張り詰めたような空気に戸惑いを感じていた……。



リビングに通されてから間もなく、佐田から紅茶が差し出され、京子がまず先に口に付ける。

しかし一方の二人はそれを口にすることなく、京子からの次の一言を待っていた。

既に佐田はティーポットなどのセットを置いて退席……というより扉の向こう側で待機してもらっているので、この部屋には3人しかいない。

どう表現すればいいのか分からない沈黙が数分続いた…。

「さて、どこから話したらいいのかしら…。」

「「…………?」」

京子が沈黙を破ったその一声に、和人と明日奈は一瞬だけ目を丸くする。



私はね、桐ヶ谷くん……まだあなたのことを認めたわけじゃないの。

明日奈には幸せになって欲しい。

今までそういう想いで私は娘を育ててきたわ。

それに相応しい男たちとも何度も見合いをさせてきた。

だけど、明日奈はその男たちを何度も拒んだ。

そればかりか、平凡な家庭で育ったあなたを選んだことが、私には、とても信じられなかった…。

私と娘の望む幸せは何が違うのか、なぜあなたにこれほど想いを寄せるのか。




「……私は、貴方という男の素直な想いを、知りたいの。」

厳かというイメージを持っていた彼の想像とは裏腹に…、いや、今はその気持ちを抑えているのかもしれない、そんな京子の落ち着いた言葉に和人は、言葉を選びながらゆっくりと話し始める。

「…僕自身も、最初は“あの世界”で一緒に戦った仲間の一人という感覚でしかありませんでした。」

その脳裏に、S.A.O.時代の頃の記憶を蘇らせ、彼女と共に過ごした日々を思い起こしながら、ゆっくりと語る…。



最初に出会ったのは、それこそまだ、あの事件が始まってから間もない頃…、そのときの彼女は、自分以外の他人と接触するのが少し苦手な雰囲気がして、戦うことすら無縁とも思えるほど、儚くて…。

でも、彼女の心の中では、一刻も早く元の世界にという意志を感じて、本当は芯から強い子なんだって、そう思ったんです。

一度別れて、しばらく経った後に再会したときには、それこそ自信と威厳と優しさを兼ね備えた強い存在になっていて、本当に驚きました。




「そのときには、あの世界で知らない人はいないというくらいの有名人になっていたこともあって、僕自身、近寄りがたいなって、思ってたこともありました…。」

“血盟騎士団”―――。

S.A.O.の世界における最強クラスの攻略ギルド。

その副団長として第一線に立って活躍する彼女の存在は、S.A.O.のプレイヤーたちにとって憧れとも言える存在だった。

「でも、そんな立場にあっても、アスナは僕と一緒に戦ってくれたんです。」

そう、決して一人で戦ってきたわけじゃない。

それを教えてくれたのは、他ならぬアスナだったのだ。



人前では毅然と振舞っていても、僕と一緒にいるときには誰も知らない弱音を口にしてくれたり、僕自身のダメなところや弱いところを受け止めてくれたり、いつからか、僕の戦いを支えてくれる大切な存在に……、頼れる存在になっていったんです。

今思えば、“あの世界”で明日奈と出会っていなければ、僕はきっと、こうして現実世界で生きることは出来なかった…。

そんな気がしているんです。




あの世界で戦い続けてきた彼は、今までずっとたった一人で戦うことが多かった。

そんな彼が、異性の中で初めて頼れる“仲間”として心を許した存在こそ、アスナだった。

「……一つ、傷を抉る質問をしてもいいかしら?」

ふと、京子が重い口を開いてきた。

「…何でしょうか?」

恐る恐る返した和人は、まさに次の瞬間、その世界の傷を抉られるような言葉を突きつけられた。





「あの世界で“誰かを殺したこと”はあるのかしら?」

「ッ!!!」





和人は息を呑んだ。

隣にいた明日奈も表情を強張らせた。





仮想世界…さらには空に浮かぶ城という限られた場所に閉じ込められていれば、精神的な異常をきたして殺人に発展する。

そんな危険な人が次第に出てきても、おかしくはないわ。

あなたは見立てではそんなに弱い意志を持っているようには見えないけれど…、何かしらのきっかけで他の人に手をかけたことがあるんじゃないかと思って、聞いてみたのよ。






「…もし、見境なしに人を殺したことがあるなんてことがあったら、娘を託すことなんて出来ないわ。」

重圧……その言葉しか表現しようのない京子の言葉に、和人は恐怖する。

…だが、ここは包み隠さず話そう。

そのほうがいい。

和人は意を決した。





「………確かに、僕はあの世界で…、人を殺したことがあります。」





「……。」

「…キリトくん……。」

思わず心配そうに声をかける明日奈。

一方で、“やはりか”というような表情を浮かべる京子。

だが、その次の瞬間に発せられた一言は、彼女の目を丸くさせた。

「僕がこの手で殺したのは…“殺人ギルド”に属していた人間たちばかりでした…。」

「……殺人ギルド!?」

その言葉は、それまでの彼女の考えを少しばかり覆した。

「あの世界に、そんなグループが組まれていたって言うの!?」

「…はい。そればかりか、僕と明日奈はかつて、その殺人ギルドの一人に殺されかけたこともあったんです。」

「!!」

感情を抑えて口にした和人のその言葉は、京子を驚愕させるに充分な効果があった。





それは、明日奈の所属していたギルド“血盟騎士団”に一時的に参加していたときのこと。

加入してから間もなく、訓練の名目で和人たちがとある渓谷に連れて行かれたことがあった。

だが突如として、同じ血盟騎士団のメンバーであるはずの一人が、仲間の一人を殺害したのだ。

しかし彼はこのとき、殺人ギルド“ラフィン・コフィン”の一員となっており、最初から和人を殺すことを目的に動き出していたのだ。

元からその男は和人に対して個人的な恨みを持っていたこともあり、今回のことは自身にとっての復讐のチャンスでもあった。

だが、異変を察知した明日奈が急速で駆けつけたことにより、和人は命が尽きるギリギリのところで救われた。

その直後、明日奈は目を鋭く光らせた怒りの表情を称え、裏切り者の男を制裁しようとした。

形成を覆され、男は土下座して許しを希った。

その姿を見て明日奈は持っていた武器を下ろそうとしたのだが、その油断をついた男は、そのまま一気に明日奈に狂気の刃を振り下ろそうとした。

ところがその流れを察していた和人が、必死の形相で彼女を庇い、最後のとどめの一撃を炸裂させ、そのまま男の命を奪った……。

『こ……この、人殺し野郎が…。』

その捨て台詞を最後に、男はこの世から消えた…。

自分の手で人を殺したのは、これが最初で最後だったとはいえ、それは彼の心にまた一つ、影を残すことになってしまった…。





それだけではない。

そのターニングポイントが訪れるはるか以前、ラフィン・コフィンのアジトを襲撃し無力化させるため、和人たちはその討伐パーティに参加したことがあった。

しかし、その情報が何かしらの形で漏洩し、アジト内部で逆襲を仕掛けられたのだ。

和人たちはそのとき、無我夢中で武器を振るって戦ったこともあり、最終的には名前の知らない3人のプレイヤーの命を奪ったのだ。

だが、このときの最大の罪は、“自分の殺した相手の名前と顔を思い出せないまま生きている”ことなのかも知れない……。





「……。」

京子は言葉が出なかった。

自分より若い彼らが、そのような極限的な状況に立たされていたなんて、これっぽっちも想像していなかったのだ。

もしも、彼らと同様の状況が、この現実世界で、自分の目の前で起こってしまったら…。

考えただけでも、体が震える…。

自分は、掘り起こしてはいけないものに突っ込んでしまった…。

聞くべきことではなかったのかも知れない…。

だが、和人はさらに言葉を続ける。

「それだけではないんです。」

「!?」

「僕は……ギルドの仲間を見殺しにしてしまったことだってあるんです。」

「!!!」





……それは、血盟騎士団に入る以前、たった一度だけ仲間として加わった小さなギルドと共に過ごしていたときのこと。

そのメンバーたちの中で、和人が心を許し、寄り添いあった一人の女の子がいたのだ。

「君は死なない。」

そんな言葉を投げかけて励ましたこともあった。

しかし、あるダンジョンに入ったときに引っかかった罠によって脱出不能となり、その女の子を含め、ギルドは和人を残して全滅。

そのギルドのリーダーも、失意の底に落とされるようにして自殺してしまったのだ。





「………。」

誰も口を開くことが出来なかった…。

和人は、胸にしまっておきたかった過去のトラウマを話してしまったことに…。

京子は、聞く必要がなかったかも知れない彼の古傷をえぐってしまったことに…。

明日奈は、それによって立ち込めた重苦しい空気に…。

全員が閉口してしまった…。

ドアの外で話を聞いていた佐田も、彼らの苦しさに胸を痛めていた…。





しばらくして………和人が重い口を開いた。





「……僕は、まだ自分の罪を赦せるほど、強い男ではないかも知れません。」

「…!」

弱さを認めた和人は、さらに話を進める…。





S.A.O.から帰ってきてからの僕は、自分のしてきた罪から、無意識に逃げ続けていたんです。

あの世界で仲間を見殺しにし、自分の手で誰かの命を奪ったのに、咎められもしなかったのをいいことに、ずっとそのことを忘れていたんです。

けれど、それは間違っていた…。

京子さんのおかげで、それに気づき、僕はもう一度、自分の罪と向き合う機会を手に出来たんですから…。






「だから、僕はこれからも、その罪を償っていこうと―――。」





「もう充分よ。」





「…………えっ……?!」





和人の言葉が、京子の一言で遮られた。

しかもよくみると、彼女の瞳から涙が…?!

「…か…、母さん…!?」

娘の明日奈も驚くしかなかった。

現実世界で母親の涙を見ることなど、今までの記憶の中でさえもほとんどなかったのだから…。





……あなたはもう、充分すぎるほどに償っているじゃない…。

私たちの娘を…明日奈を守り抜いてくれた…、明日奈を私たちのもとへ返してくれた…。

それだけで……それだけでもう、あなたは今までの罪を拭うくらいに償ってくれたわ…。

それなのに…ッ…、私が我侭なばかりに、あなたのことを知ろうともしないで……。






感極まったのか、とうとう京子は泣き崩れてしまった。

「母さん!!」

明日奈が思わず立ち上がり、母親のもとに駆け寄る。

その傍らに、和人も駆け寄る。

どうすればいいか分からなかった娘は、母親の体を抱きしめる。

娘の体温を感じた母親は、その腕を優しく握り返す。

こんなに温かい気持ち……今まであっただろうか…?

そう思うくらい、この触れ合いはとても新鮮だった。

やがて、落ち着きを取り戻した京子は、和人の目を見る。

「……和人君…。」

「…?」

「私が今まで言えなかった言葉…、今こそ伝えるわ…。」









――娘を守ってくれて…、“ありがとう”…!









その言葉は、和人の心の中に一筋の光を作ってくれた。

今までの罪の意識や足かせが、すべて解き放たれていくような、そんな安心感が胸の奥に溢れていった。

「その言葉で…僕の心が、軽くなりました…!」

ナミダを湛えた彼の微笑が、その証となった…。







二人を遮っていた壁は取り除かれ、京子は彼を認めた。

和人と明日奈は正式に、恋人同士として新しいスタートを切ることになったのだ。







話が終わり、和人を見送った後、家の中に戻ろうとした明日奈の背中を、不意に京子が抱きしめた。

「……?」

こんなことをされたことすらなかった明日奈だったが、何も言わずに待った。

何か、言いたいことがあると感じていたのだ。

……やがて、京子は口を開く。





「いい人に、巡り会えたね、明日奈…。」

「…うん…!」

「あれほど強い男なら、きっとあなたを支えてくれるわ。」

「…母さん…。」

自分は彼のことを過小評価していた…。

京子はそう言って、見る目がなかったことを娘に詫びた。

そして、自分のつまらない意固地のせいで、かけがえのないものを無理矢理奪おうとしていた自分を許してほしいと、静かな声で伝えた。

しかし、明日奈は首をゆっくりと横に振る。

もう、気にすることではないのだと…。

母が彼を認めてくれただけで、充分なのだと…。

「明日奈…、あなたもあの事件を乗り越えてから、とても強くなったわ…。」

そして母も、娘の今の強さを認めた。

和人の告白を通じて、娘の心を知ることが出来たのだから…。

「あの人を本当に愛しているなら、これからも、その心を強く持ちなさい…。その想いが冷めない限りは、絶対に、手放してはならないのよ。いいわね…?」

「…うん。ありがとう、母さん…。」

二人の親子の関係も、少しずつ改善されようとしている…。

お互いに意地っ張りだった母と娘は、これから新しい出発点に向かうために、歩み寄り始めていた…。



--End--





☆あとがき
久しぶりのオリジナル短編!
しかも今回は初めてのS.A.O.ネタとなりました!
劇場版『オーディナル・スケール』のEDで、キリトが結城家に訪問するスクリーンショットが出てきたのが脳裏に残り、それを発展させてみたいと前々から思っており、僕なりのオリジナル展開を考えてみた結果、こんな形に行き着きました。

ちなみに今回は、“クレヨンしんちゃん”の初期のED「素直になりたい」もインスパイアの元となっています。
あの曲、アスナと京子のようなワガママ親子の関係線を描いているかのような感じがしているんですよね、今思うと。





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